玉蘭は、中島醤油 奥村安兵衛の孫として生まれ、安兵衛の厳格な教育を受けました。幼い頃から文に親しみ、六才の時には経史を通読したと言われています。また、安兵衛から聞いた商用の旅先での名所、旧蹟の土産話は、ことのほか興味を持ち、その後の玉蘭の人生に大きく影響することになりました。
父源吉の代となり、玉蘭は家業を手伝いながらも、その余暇に学問に励み、福岡藩における思想的指導者であった亀井南冥、昭陽に師事しました。寛政三年(1971年)南冥の藩校「甘棠館」が火災、廃校となった際、南冥、昭陽ら10数人の学者を自宅に招き受け入れるなどで家業を守ることが出来ず、弟に家業を譲り、陽明学者と更に親交が深まりました。
その頃、分家である石堂町の奥村次吉は本家(玉蘭の家)をしのぐ繁栄振りでした。黒田藩の財政危機の際には援助を行い、その貢献に対して次吉には苗字、帯刀が許され、、若干の禄を与えられ博多年行司職に任じられました。しかしながら一方では藩から排除された「甘棠館」の学者浪人を招き、援助を与えているいる玉蘭の行動は年行司職にある次吉には藩への気兼ねもあり再三、玉蘭に苦言を呈して奥村家の安泰を促しました。しかし、玉蘭は聞き入れず、遂には親族会議の結果、学者が集まる玉蘭の茶室は壊され、隠居、追放が命じられました。
その後、玉蘭は太宰府に学校院址に「草庵」を建て、「玉蘭堂」「玉蘭庵」「玉蘭屋敷」と称しました。博多の名僧仙厓和尚も「玉蘭堂」の扁額を揮毫して玉蘭を激励しました。
さらに、玉蘭は、京都遊学を志し、京都の佐伯岸駒に絵を学びました。京都遊学前後からライフワークとして「筑前名所図会」に着手し、文政四年(1821年)完成にいたりました。「筑前名所図会」は筑前国内の地理、風俗、行事、歴史などが図入りで詳細に記されており、郷土の貴重な記録書と言えます。しかしながら、出版については、当時黒田藩から排除されていた亀井派との交流に藩の反感が根強かったことに加え、挿入図が城下町やその周辺について克明に記されていることが危惧され発刊が許されず、150年を経た昭和48年に地元新聞社の協力で初めて稿本通りの複製版が出版されました。
以降の玉蘭は太宰府の顕彰にその余生を賭け、天満宮に3間に7間の大絵馬堂を奉納したり、麒麟像の原画を描きました。さらに学業院址に聖堂を設け、聖像を設けるなどしてその聖像を安置した場所で68歳の生涯を閉じました。
太宰府天満宮に玉蘭が寄進した絵馬堂には、玉蘭直筆の“西都奇観”の書ならびに孔雀図が掲出されています。↓
絵馬堂に奉納した玉蘭直筆の“西都奇観”の書ならびに孔雀図
キリンビールの麒麟のモデルかも?。↓
玉蘭は、キリンビールの麒麟絵の元との説もある、大宰府天満宮の麒麟像の原画を描きました。